アニメと音楽のメモ帳

アニメと音楽についてまとまりない文章を。

幻影ヲ駆ケル太陽 4話

ブログを始めました。アニメと音楽に生きている nothitori です。

初エントリは TV アニメ「幻影ヲ駆ケル太陽」の第4話から。

今回はダエモニアになってしまう不遇な美大生聖音(きよね)にフォーカスが当てられる。

描けども描けども結果につながらず、同じクラスの美人で親が権力持ち、加えて名声も持ち合わせている夢を恨み妬む。何故あの子ばかり、くそくそくそ。そんな気持ちに拍車をかけるように、夢に自分の絵をけなされ、あまつさえ(恐らく)惚れている男と恋仲であるのを目撃してしまう聖音。そこを謎の占い師に付けこまれ、ダエモニアにとりつかれ、結果夢や惚れている男を手にかけてしまう。最終的にあかりたちに発見され、せいらの一撃に散る。

この一撃の前にあかりがダエモニアとなった聖音を説得しようとするシーンがある。しかし、ここで聖音の言葉に負けてしまう。

人間が皆きれいな心を持っている? 本当は悪いことなんてしたくない? そんなの、あんたが勝手にそう望んでいるだけだ! 私に押し付けるな!

あかりは本心を聞きたいとして迫ったが、理解しようとしてくれたあかりはなぜ拒絶されたのか。聖音が欲しかったものはなんだろうか。

前述のセリフの後に、あかりに対して聖音はこう言っていた。

偉そうに説教するあんたも死んじゃえばいい!

「説教」という言葉を用いている辺り、既にあかりは「上からの物言いで自分を否定する存在」と認識されていたようだ。「押し付けるな」という言葉からもそれがうかがえる。

裏を返せば「自分を否定しない存在」を求めていたことになる。ここでの「自分」とは「理不尽さに苦しむ自分」である。何かに苦しむ自分ををまるっと包んでくれる存在が欲しかった。

そんな聖音と今回のあかりは特別相性が良くなかった。あかりは今回の中盤でせいらと言い争っている。

ダエモニアにとりつかれる人間は弱い人間。この世から淘汰されるべきいなくてもいい人間。

どんな人だってダエモニアにとりつかれるかも知れない。いなくてもいい人間なんていない!

ダエモニアを穏便に何とかしようとするあかりと、何とかされること自体を排除したい聖音。相容れないだろう。

ダエモニアが生まれるところを描くとともに、あかりとせいらの見解の違いも見られた。これからどう転がるのか楽しみ。