アニメと音楽のメモ帳

アニメと音楽についてまとまりない文章を。

神さまのいない日曜日 6話

神さまのいない日曜日」の第6話から。
ウッラについて色々判明した回。

粗筋

オルタスに生者を迎える際の儀式でウッラは彼らを無自覚に殺していた。ウッラは、その声を耳にし、その身に触れ、その目に写った生者を死者にするコロシオハケだったのだ。ウッラに生者と死者を逆転して認識させ、彼女の存在の特殊性を隠し、何より彼女を傷つけまいとキリコはウッラの傍についていた。隠し続けるべきというキリコに対し、何としてもこのことを伝えねばならないと主張するアイはウッラのもとへ向かった。事実を打ち明けるアイ。それを聞いてもウッラは平然としたものだった。それもそのはず。ウッラはキリコが隠そうとしていたこと、厳密には自分が何らかの能力を持っているということを知っていたのだ。アイが感じていたように、2人の類似性を説くウッラだったが、オルタスを、またキリコを愛しているために、この場所に残るとアイに説明した。

翌日、ウッラが会わせたい人がいる、とアイたちをとある場所へ連れて行った。そこにいたのは赤ん坊。それは、ウッラの双子の姉セリカだった。セリカを一目見るや、近寄るスカー。何と、セリカは自分の子どもで、オルタスに来てから聞こえていた声は彼女のものだと言うのだ。ウッラに彼女を託され、アイたちはオルタスを後にした。

所感

ウッラが、生者を死に至らしめる能力を持っていることが分かった。オルタス編でウッラの、特に見た目に関しての、異常性が気になっていたが、生者には近づくことさえままならない存在なのなら、致し方ない。オルタスという籠を愛してしまったウッラと、自由を求めるアイ。その相違点は例えば劇中の発言にも表れている。

皆が私に知られたくないことなら、私は別に知らなくても良いかな、って。

ウッラが秘密を知っていることをキリコたちに打ち明けた場面の言葉だ。ここには、自分の異常性に気付きつつも、周囲の環境に迎合することで平穏を維持しようという考えが見える。自分の意思よりも籠の維持を優先させているのだ。

そんなウッラとアイのどちらが幸せか、などと主張することは無意味だ。なぜならば、彼女たちは、それぞれがそれぞれの現在の生活を是としているからだ。それは、環境や生い立ちの違いから起因していると考えられる。ウッラは劇中にもあった通りオルタスを愛している。盲目的であることを常識とするこの環境を、それを分かった上で好んでいるのだ。しかし、アイは生まれ育った村での生活について、

村の中で嘘と優しさに囲まれていた私。自分のことを何一つ教えてもらえなかった私。何も知らないままに役目を押し付けられていた私。

と語っている。ここからは、本当のことを知ったときの驚愕や失望がうかがえる。村にいたときはある種「騙されていた」と感じていたのだろう。だからこそ、ウッラには同じを思いをさせまいと事実を話すことにしたのだ。

ウッラ「死は、私は、悪いものだと思う?」

アイ「……分かりません」

ウッラ「私にも分からない。ああ、きっとアイは、この分からないことを分かるために旅をしているのね」

アイ「そうかも知れません」

この会話からも、アイがこの世界や生死について積極的な態度であることが分かる。恐らく、旅をしている今の状況は、少なくとも村にいたときよりかは良いと感じているのだろう。ウッラとアイ。似た者同士の2人がオルタスで出会えたことはお互いにとって、救いになったことだろう。最後の辺りで、ウッラがアイとキリコを挟んで通じ合っていたとき、安らかな顔でウッラとアイは何を考えていたのだろう。

この作品自体が生と死とは、生者と死者とは、という哲学的なテーマを含んでいるので、どうにも重くなりがちだ。アイも年齢相応の反応からは大分落ち着いた方向に行っている気がする。配色や光の加減を考えることで、その重たさを軽減することができているようだ。旅をする彼らの終着点はどこになるのか。視聴者も置いて行かれないようにしなくてはならない。