アニメと音楽のメモ帳

アニメと音楽についてまとまりない文章を。

有頂天家族 6話

「有頂天家族」の第6話から。

淀川教授が変わっているということが分かる回。

粗筋

弁天・矢三郎・淀川教授は紅葉のきれいな屋上へやってきた。しかし、早々に弁天は姿を消し、残された2人で紅葉を見ながら語ることに。淀川教授が矢三郎の父総一郎を食べる前に総一郎と交わした会話を矢三郎に聞かせた。

お開きになり、教授と別れた矢三郎は兄矢二郎のもとへ泊りに行く。すると、弁天が現れ、言葉なしに泣いているのを矢三郎は見るのだった。

所感

淀川教授の語りがメインの今回。狸が好きであるが故に、狸を食べたいという矛盾して聞こえる話だ。

どうせ死ぬのなら、あんまり痛くさえなければね、僕は狸に食われるのが良いんだ。

(中略)

病院で死んだって誰の栄養にもならない。そんなのは淋しいね。狸が腹を膨らましてくれる方がよっぽど良いな。

(中略)

それに僕はきっとまずい気がするんだ。悲しいなあ。狸たちが自分を食ってもまずかろう、そう思う人間っていうのは悲しいなあ。

生存競争上、人間は表立った意味では天敵を排することに成功した。そのため、つい忘れがちになってしまうのが人間だって自然界の中の一因に過ぎないということである。食べることに関するアニメは、現在放映されている中では「トリコ」や「銀の匙」があるが、通底しているのは「食べ物を食べるということは命を食べるということ」である。人間は通常捕食側から物事を考える。しかし、いやだからこそか、被食側の論理がともするとすっぽり抜けてしまう。別に、食べられる側も生きているのだからだとか、乱獲反対だとか、そういうことを言いたいのではない。食に関していつもとは逆の立場を考えるということが面白い試みだということだ。今回で言えば、教授は自らの死を食べられることで表現している。総一郎の発言がもとになっているのだが、自分が死ぬことに関して食べられて死にたいと言っているのだ。死とは、要するにある存在が消えることだ。死んだ後も誰かが覚えていてくれる限り死なない、という立場もあるが、ここではもっと、一種唯物論の様な話をしている。残る、ということに関して、最も直観的で納得しやすいのが、死んだ存在に関してのモノである。形見と言い換えても良い。そんな存在として、自分が愛してやまない狸の一部になれるとすれば、やはりそれは教授の望むことで間違いないのだろう。唯物論も観念論も唱えられて久しくなった今の世。ちょっと視点をずらしてみれば程々にパラダイスになるかも知れない。